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1 2018年 11月 15日
神奈川近代文学館で開催中の「寺山修司展」に行った。 特に「これ」という何かが見たいわけではなかったけれど、 寺山に触れたくなったので 無理やりに時間をひろげて、みなとみらい線に乗った。 港の見える丘公園なんて、歩くのはいつ以来だろう。 すでに山手を歩く時点で過去に侵食された現在だ。 館内の展示そのものには、すでに目にしたことがあるものばかりで それほど感じ入るものがあったわけではない。 展示の手法も、こう言ってしまうと申し訳ないが、 時間軸とジャンル軸の展示にはさして工夫もなく、 言葉の文字ビジュアルで空間を作るというやり方もこぎれいすぎて、 寺山の言葉を見せるなら、均一なきれいさではなくて 一つひとつの言葉そのものに寄り添ってほしかった。 ……そういえば、青森の寺山修司記念館にはまだ行っていない。 なんという体たらく。 今、館長は佐々木英明さんがやっているのだなぁと思うと 過去の、ある店での恥ずかしい振る舞いを思い出し。 あの時はごめんなさい。タリさんに怒られた。 というその店の主、タリさんは今年9月27日に亡くなってしまった。 合掌。喪失感。 そうだ。 1983年5月4日、寺山の訃報を聞いた時、私は東京にいなかった。 後から仲間に「告別式は誰でも参列できたんだよ」と言われたけど、 それを残念だとは思わなかった。 むしろ、その現実から逃げたのかもしない。 情けないけど、おそらくそういうことだ。 寺山の、天井桟敷の、つくる演劇のある部分のコピーから演劇をはじめて それなりに自分たちで舞台を作ってきたのだけれども、 今は、それは形を変えて別のものになっている。 それはそれでいい。 「寺山修司展」展示室の前空間で 天井桟敷のビデオ・アンソロジーが上映されている。 全部見たことのある映像で、特にどうこうはないのだけれど、 かつて舞台で観て知っている人の過去の映像 &実際に見た舞台の映像と見てしまうと、 どうしても気持ちが過去に傾く。 仕方がないので今日はズブズブ過去を思って、 寺山の書物と映像に埋もれよう。 今日は、閉館間際に館を後にしたのだけれど、 扉を出た先に、白髪の田中未知さん(間違いないと思うけど)に遭遇して、 「あら、なんてかわいい」って思ったよ(笑)。
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by asabali
| 2018-11-15 02:28
| 演劇
2018年 11月 07日
バリ舞踊のことばかりで、2017年1月16日のブログで書いた「状況劇場を見る」以降、かつての演劇についての話はまったく出なくなってしまいましたね。う〜ん、リアルタイムのバリ舞踊はその時その時であれこれあるのですが、過去の話は一度その空間を離れてしまうとなかなか戻れません。 でも、ひとつ言いたかった話が途中だったのを思い出して、続きをひとつ。 それはこんな話でしたね。 ・・・・・・ あと、状況劇場のことでいうと、それこそ1960〜70年代の状況劇場の役者で天竺五郎という人がいて、あるときにその人が私の人生を左右し、また、誰も意図していなかった不思議な未来をつなげることになる役割を担ったという話は、また次の機会に。 ・・・・・・ この話。 私は天竺五郎さんが状況劇場で役者をやっていた時のことは知りません。天竺五郎さんに特別な関心があったわけでもありません。 それなのに、なぜか縁の深い……。 最初に主宰した劇団「実験室 人形書簡」の結果的に最終公演になった舞台を、1983年に中野のテルプシコールでやったのですが、それがどうにもこうにも……(苦笑)。ハタチ前後からの勢いだけでやってきた集団の視点はどうにも定まらず、結果的に私だけが先鋭的になってしまってメンバーとずれてしまいました。そんなわけで、解散を前提とした舞台に共有するものは少なく、残念な舞台になってしまったのですが、ただ私としては、このテルプシコールという場で起こったことが、ここから始まる未来を決定づけたわけです。 本番前日(作り込むような舞台ではなかったので)に舞台や照明をセットして、ゲネまでという段取りで準備をしていたのですが、仕込みの最中に、あきらかに現実と虚構二股をかけて生きている風貌のおじさんが現われ、準備の様子を見ていたり、何かを言ったり、勝手にリハとかも見てたりして、そういう人に慣れていないメンバーはかなり引いていました。 でも私は「この人いいな」と思ったんです。 仕込みの最中にどこかからバンセンを持ってきてくれたり、個人的に演技のアドバイスもしてくれました。 話をしているなかで、私、ちょっとなつきましたかね(笑)。 ただ、この時点ではこの不思議なおじさんが誰だかはわかっていません。 でも、その後も話をして、「え〜! あの状況劇場の天竺五郎さんなんだ!」ってわかった時の衝撃といったら! それで、もっと話を聞いてもらいたくて、芝居の打ち上げの席に呼んでしまいました。正直、劇団解散前提の打ち上げなのに、この勝手な振る舞いは他のメンバー的には無茶苦茶感じ悪かったですね。今更ですがごめんなさい。 そこで、「身体をもっと使った表現をしたい」という話を聞いてもらって、天竺さんが「それなら、この男を連れてきてもいいか」と連絡を取ってくれ、 私の前に現れたのが、大駱駝艦の初代メンバーでもある、ダンス・ラブ・マシーンの田村哲郎さんでした。 そして、ここを起点に私の演劇から舞踏への第一次スライドと、相成ったのです。 ちなみに天竺五郎さんの話には後日談がありまして、 私が踊りや演劇をやり続けながらも、それでは食っていけないので、 いろいろな原稿書きをやっていました。 そんな中で仕事をいただいた ウエディングのムックを作っていた編集プロダクションの社長が なんと! 天竺五郎さんのお兄さんだったんです! もうビックリすぎて、泣き笑いのような心持ちでしたよ!
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by asabali
| 2018-11-07 22:57
| 演劇
2017年 01月 16日
黒テントのことを少し書いたので、状況劇場のこともと思いデータをひっくり返して見たら、自分の記憶に反して、中国の不思議な役人より状況劇場を見たのが後でした。順番としては、黒テント〜状況劇場〜天井桟敷だとずっと信じていたので、ちょっとビックリ! 記憶というのはかなりいい加減です。でもまあ、天井桟敷初体験は「奴婢訓」からということにしていたのでしょう。
1970年代後半に私が見ていた当時の状況劇場は、アングラ演劇的にいうと、むちゃくちゃ「かっこいい」劇団でした。なんていうかアングラの王道。旗揚げ当初の1964年からしばらくのもっととんでもない舞台を共有している人に言わせれば、77年頃の状況劇場はある意味完成された舞台を作っていたのかもしれません。実際、写真などから四谷シモンや麿赤兒がいた頃の状況劇場を想像しようとしても、ちょっと手が届かない感じ。写真だけでは絶対にわからない蠢いてるものは、体験していない私には、悔しいけどわかりません。 で、私が初めて見たのは1977年6月の「蛇姫様」ですが、状況劇場に巣食っている猥雑さや魔界の路地裏に引きずり込まれるような役者たちの魅力は特別でした。私が見ていた時代では、根津甚八、小林薫、大久保鷹、不破万作、十貫寺梅軒などの男優陣が李麗仙と丁々発止でやりあってつくる虚構の深度みたいなものが本当に魅力的で、「真似したい」と思った役者がいっぱいいましたね(根津甚八さんは昨年末、残念ながら他界されました。個人的なことですが根津甚八さんは誕生日が一緒なので……いや、だからどうということではないですけど)。これぞアングラの興奮という、いかがわしいがゆえの惹き込まれは、状況劇場が一番でした。 ちなみに、画像でチケットを並べてみたのは整理番号が書かれていたから。500番台とか、テントに入ったのかと(笑)。 あと、状況劇場のことでいうと、それこそ1960〜70年代の状況劇場の役者で天竺五郎という人がいて、あるときにその人が私の人生を左右し、また、誰も意図していなかった不思議な未来をつなげることになる役割を担ったという話は、また次の機会に。 ▲
by asabali
| 2017-01-16 01:04
| 演劇
2017年 01月 13日
過去の演劇の話を寺山&天井桟敷で進めてしまうと、なんだか「寺山研究」みたいになってかたっ苦しいので(笑・でもまた続きますが)、今日はちょっと違う話。
寺山に先立つ1976年12月5日、黒色テント68/71の「阿部定の犬」を見に、当時の悪友に連れられて川崎球場裏グラウンドに張られた黒テントに行きました。黒テントといえば、当時のアングラ界では有名な劇団だったので、早い番号の整理券をもらおうと、夜7時開演にもかかわらず、勇んでお昼過ぎぐらいに現場に行きました。今と違って「何時から整理券出します」みたいなのはなかったのではないかな。それともただただ気が急いて早く現場に行ったのだったかな。よく覚えていない。とにかく早い者勝ちではありました。それでも1番とかじゃなかったですよ。一桁だったとは記憶してますが。 でも、高校3年生の男子2人がお昼から夜まで何をしていたらいいんでしょう。お金もないし、喫茶店でお茶するような発想すらない(笑)。結局、グラウンド周辺をぶらぶらして、時々会話をしながら、それぞれが物思いにふけるようにまったりとした時間を過ごしていたわけです。 でもそのまったりとした時間に見たものが面白かった。 最初はグラウンドでやっている草野球を見るでもなく見ていたのですが、そのうち、テントの中から役者さんたちが出てきて(寝泊まりしていた人もいたのでしょうか)、おのおのが体操やら発声練習などをして、まるでサーカス巡業の一団のよう。でも当時はそこまでの感性がなかったので(苦笑)、もっと漠然と「なんかいいな」という印象だったと思います。そのうち、スタッフの人も出てきて、あれやこれや準備、セッティングをはじめ、そんなこともぼんやり眺めているうちに、だんだんお客さんが周りに集まってきて、「そう! 黒テントの芝居を見るのだった!」とあらためて気づかされました。 芝居そのものは、台本も演出も面白く、熱気に満ちたすごく見応えのあるもので(特に寺山以前だったので)、思うことがありすぎて、川崎から阿佐ヶ谷まで帰ってくる電車の中で、高校生男子2人はそれぞれが窓の外を見ながら一言も喋らなかったと記憶しています。圧倒的な舞台のあとにその感想を言葉にしたり、言葉で共有したり、といった気分ではなかった、あるいはできなかった、といったところでしょうか。 その芝居は今でも覚えています。斎藤晴彦、新井純、小篠一成、金子研三、桐谷夏子などの芸達者ぞろい(清水綋治と村松克己は、この芝居には出ていませんでしたが)で、すげえもん見たなと。黒テントは初期自由劇場からの流れもあって、俳優術としては結構正統派で、そのぶん、役者もうまく力のある人が多かったと思います。でも、この舞台を思い出すとき、一緒に必ずついてくる記憶は、開演前、舞台以前の役者やスタッフの振る舞い。虚構は日常の中にあり、また、日常はいつでも虚構にとって代わられる。そこに境界線はない。またはそれはパラレルに並行して共存している。それを見せるのが舞台者(もの)なのだということを、そうだ、あのときの私は帰りの電車の中で、それを言葉にできなかったのだと今更ながらに。 ねえ、Mくん。 ※このパンフは川崎で見たときに購入したものですが、直前に梅ヶ丘で「昭和三部作」連続興行の際に作られたもの。むしろ川崎でやった「阿部定の犬」はアンコール特別公演だったのかも。
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by asabali
| 2017-01-13 06:09
| 演劇
2017年 01月 11日
こうしてみると1977年の寺山修司はパルコとかなりつるんでいたんですね。戦略的に利用していたのか、あるいは場を与えられて嬉々として遊んでいたのか。この「映写技師を撃て」は6月14日〜15日の2日間、パルコと映画実験室人力飛行機舎(寺山の映像部門の制作事務所)の提携公演という形で、やはりPARCO西武劇場で上演されました。
寺山修司は長編映画をそれなりに撮ってます。「書を捨てよ町へ出よう」「田園に死す」「さらば箱舟」というATG制作の3本に、商業映画の「ボクサー」、フランス制作オムニバス映画のうちの一話になった「草迷宮」、日仏合作で作った「上海異人娼館チャイナドール」です。そしてこれとは別に自主制作による短編実験映画を数多く作りました。それらの実験映画をまとめて上映したのが、この「映写技師を撃て」だったのです。 もちろん、AプロBプロとも見に行きました。いくつかの映画は強く印象に残り、その後、あきらかに影響された発想もありました。これらの実験映画は10分程度から長くても30分くらい(「トマトケチャップ皇帝」だけはもっと長いですが)で、とにかくワンアイデアをいかに映像で伝えるかというものだったと思います。そのワンアイデアというのは、例えば「さえぎられた映画」「スクリーンの中に出入りできる映画」「釘を打つ映画」「ドアの映画」「消しゴムで消す映画」などなど。まさにそのものズバリを映像化したものが多いので、CGなどの今の映像技術を知っている目からすると、稚拙に見えるものも多いんですが、当時はまだフィルムの加工が難しかったころ。寺山のアイデアを実際の映像にするだけでも大変だったのではないかと思います。 私は「迷宮譚」というドアの映画が好きです。2人の男がドアを背負って歩き、ところどころでドアを開けると、ドアの向こうには違った景色が広がっている、という繰り返しで、これだけだととても他愛のない話ですが、「どこでもドア」的なありがちな発想が、そのうち、ただドアを開けただけの合成されていない風景が、マグリットの窓の前にカンヴァスを置いて窓の外の景色を描いた絵のように、ドアの向こうのまるで地続きのように見える風景は本当にそうなのか、と疑うようになってくる。そういった逆転が、どの作品にも多かれ少なかれ垣間見えます。 しかし、寺山の実験映画にはもうひとつ、映画全体としての大きな問題定義が表されています。物語から読み取れる個々の発想ではなく、「映画とはプリントし終えるまでが映画の行為であり、そこから先は物件になったわけだが、私は最終的に映像がスクリーンに届くまでが映画の創造行為の連続であると考えるべきだ、と思っていたのである」(寺山による解説)とのこと。 文頭で「西武劇場で上演されました」としたのは、「上映」の誤記ではなく、それがまさに上演であったという点が、寺山実験映画を通底するコンセプトだったからです。例えば「審判」では白い布のスクリーンだと思っていたものが白い板で、映画の中の釘を打つ行為にかぶさるように、スタッフが出てきてスクリーンに釘を打ち付け、さらには劇場のドアの外でも、そのドアを釘で打ち付けている音がする、といったスクリーンから現実へのスライド。また、「蝶服記」では、眼帯をしている主人公のドラマと並行して、映写機からスクリーンの間に障害物が横切ることで映画の一部が見えなくなる、といったさえぎりなど。 これらは実際には結局全部人力でやっていることなので、映画ひとつを上映するのにもとても人出がかかっているし、そのスタッフも含めての映画だということです。 それが最も顕著に表れているのは「ローラ」という作品。スクリーンの中の女優たちが言いたい放題に観客を罵倒するのですが、それに腹を立てた客が客席からスクリーンの前に出て文句を言うと、スクリーンの中に引きずり込まれてしまいます。スクリーンの中でその客は女優たちに弄ばれて最後は服を全部脱がされ、スクリーンから追い出された客は裸で客席に戻ってくる、といったトリッキーな映画です。これはスクリーンが幅広のゴムでできているというところがミソなんですが、たとえ実際に映画の中と外を行き来したところで、映像化されているシーンが変化するわけではないので、本来的な違う世界との相互性を作品にしているわけではありません。寺山もそれを認めた上で、「スクリーンに対する認識を変えるためのもの」と割り切って、まずは驚かせるという発想で作ったようです。 大変なのはこの観客役の俳優さんで、この映画を上演するときには必ず同行しないとならないですし、髪型も変えられない、衣装も毎回同じで、縛りの多い役回りです。当時はできるだけ齟齬が生じないように気を配っていたでしょうが、時間の推移には勝てませんね。ヘンリクさんも年相応の外見になられたでしょうから、スクリーンの中の若い見た目との違いはどうにもなりません。この作品はさすがにお蔵入りでしょうか。 こうして改めて振り返ってみると、当時は疑問を投げかける方法が多面的だったなと思います。たとえ技術的には追いつかなくてもとにかく発想を形にして外に出す。今はだれでもどんなジャンルでも技術的に高度なものを扱うようになりましたが、一方で、枠組みについてはむしろ「枠組みありき」の発想のようにも見えます。枠組みそのものを疑ってみる、という感覚が疲弊していくのは残念ですね。 ▲
by asabali
| 2017-01-11 07:33
| 演劇
2017年 01月 10日
1977年2月23日〜3月6日(7月12日〜20日再演)にPARCO西武劇場で上演された「中国の不思議な役人」は、正確には天井桟敷の公演ではありません。当時の天井桟敷新聞(天井桟敷の本公演に関しては、チラシは作らず、独自のフォーマットによる「天井桟敷新聞」を告知ツールにしていました。2つ折り4面の新聞で読み応えあり)を見ても、「中国の不思議な役人」についてはまったく触れていませんし、あくまでパルコプロデュースによる番外編といった位置付けです。伊丹十三や山口小夜子、美術の合田佐和子、衣装のコシノジュンコ、スチールの沢渡朔などといった錚々たるメンバーは、パルコ制作だったからこそ実現したのでしょう。 今から思えば、その時期の寺山修司&天井桟敷は「盲人書簡」「疫病流行記」「阿呆船」という実験的3部作を作り、この1年後には「奴婢訓」という後期天井桟敷の最高傑作の試演にたどり着く、空間的にも演劇のあり方にも根底から揺さぶりをかけていた、もっともとんがっていた時期からすると、西武劇場という通常の額縁舞台の劇場で、有名俳優&スタッフとのコラボ、またバルトークの原曲・レンジェルの原作(台本は寺山好みに大幅に書き換えられてはいましたが)といった縛りなど、当時の寺山からすると明らかに表現としては後退した演劇であったことは確かです。さすがの寺山もこの作品を自分の演劇の流れの一環として認めることができず、苦し紛れに「天井桟敷の出発点である見世物復権」という言い方をしていたかと思います。 のちに体験した寺山修司&天井桟敷の活動と舞台からすると、確かにその位置付けは納得がいきます。しかし何しろこちらはこのとき寺山初体験。侏儒や剃毛半裸の苦力、浮遊する少女、作り物としての役人(ポーの小説「使い切った男」のよう!)などによって現出するグロテスクな集団悪夢のような世界は、十分に刺激的でした。日常とは切り離されデフォルメされたメイクと衣装、照明や音楽、舞台装置が先導する世界づくり、完全な闇、痙攣する異形の肉体と言葉の跳躍。マッチや花火などによる原始的な刺激(消防法の配慮は抜かりなかったよう)。そんな日常に還元できない体験が記憶に織り込まれる不思議。それまでの、物語とか役に対する感情移入といった演劇体験とは、まったく異次元の世界がそこにあったのです。 天井桟敷の演出法の一つに「開場開演」というのがあり(当時は珍しくなかったけど、最近はほとんどないですかね?)、客入れの際からすでに物語の世界が動いていて、劇場内に入った瞬間から日常と切り離された別の空間にスリップする手法。私も自分の公演でしばらくそうしていましたが、お客さんが中途半端に緊張してしまい、あまりうまくいってなかったかなと今では思います。でも、「中国の不思議な役人」のときも確かそうだったと記憶していますが、日常とは地続きではない世界に足を踏み入れた感じ、というのは、椅子に座って自分が見るモードに変わってから「さあ開演」とお話が始まる予定調和な切り替えの世界(映画や音楽のライブとかはそうですね)とは違った困惑が、逆に「これだ!」と思ったのでした。 なので、天井桟敷的にはお遊び(とっても贅沢なお遊びです!)だったかもしれませんが、私は「中国の不思議な役人」の舞台が好きです。見世物として完成されたものに刺激され(それがそのときの天井桟敷的とんがったものではまったくないですが・苦笑)、真似したいと思ったことが、本気で「自分の演劇をつくるのだ」と決めるきっかけになりました。 ちなみに、2009年9月にパルコ劇場で白井晃演出、平幹二朗主演で再演された舞台は見ていません。また今年、若松武史主演で青娥館という劇団が、3月17日から「中国の不思議な役人」上演するそうです。「若松さんが見たい!」とはかなり熱烈に思いますが、さてどうしましょう。 ▲
by asabali
| 2017-01-10 04:58
| 演劇
2017年 01月 09日
バリ舞踊のことを書こうと思ったのに、「寺山修司」と書いた途端に脳内の回路が演劇にスリップしてしまったので、そっちの続きを。バリ舞踊のことは動きがあったらカットインします。
1977年2月末からの、PARCO西武劇場で上演された天井桟敷の「中国の不思議な役人」に先立ち、約2週間に渡って渋谷の西武百貨店B館8階特設会場で催された「寺山修司の千一夜アラビアンナイト展」という不思議博覧会に通いつめたことで、それまでに見てきた演劇とは違う何かという自分の中での方向転換を自覚しました。まだその時点で天井桟敷の舞台を見ていないというのに! もちろんこの催しは、本編の舞台の集客のために企画されたものだと思いますが、それを寺山修司は面白がって、市街劇「ノック」などでやってきた同時多発的な場の作り方、また、この直前の舞台で試していた迷路のように空間が変わっていく虚構の連なりというのを、商業ベースでわかりやすくやって見て、「あ、こういうの使える」と寺山修司は思ったのではないかな、などと想像してしまいます。 この不思議博覧会の中で好きだったのは怪奇指人形劇「巨人物語」。「6ペンスの歌、歌お〜よ。ポケットにはライ麦がいっぱいだ〜」で始まる人形劇ですが、これだけ聞くとちょっと牧歌的ですね。内容はひねくれていきますが、でも結局意外とかわいい落としどころで、「すごくヘンだけどすごくいい」というのがわかりやすかった出し物でした。 それから、新高さんや蘭さん、シーザーのライブもありましたが、そこはちゃんと見てなかったかも。なんせ、まだ桟敷前夜なので。 「中国の不思議な役人」の舞台を、このイベントに踊らされたせいもあるかもしれませんが、すごく期待していて、結局、ここから天井桟敷にズボズボとはまっていったのですが、今から思うと、この不思議博覧会で見たヴィデオシアターの「疫病流行記」に絡め取られていたのかもしれません。モノクロームの世界で「伝染」という名の「伝染」が実態と虚構が干渉しあって、新たな「伝染」を作っていく「ヤバさ」は、これが寺山修司と天井桟敷かと思って、でんぐりかえったわけで。 「疫病流行記」のビデオで、新高さんとか蘭さんとか、タリさんとかは、もちろんこれが桟敷の芝居かとグッとくるんですが、若松武史(当時は若松武)さんと根本豊さんとの2人のやり取りのシーンがすごく好きで、自分の芝居を作るときに当時の相棒と真似してさんざんやっちゃいました。すみません。 そんな流れで見た「中国の不思議な役人」は、見終わって「寺山修司の千一夜アラビアンナイト展」とは別のベクトルで、それまで見てきた演劇とは違う可能性を見たのでした。 ▲
by asabali
| 2017-01-09 01:26
| 演劇
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